『犬心』──これは「母」の物語であり、同時に「子」の物語でもある

〈急いで書かないと、タケのいのちに置いてけぼりにされてしまうような気がしている。〉

南カリフォルニアに暮らす伊藤比呂美一家が飼うジャーマン・シェパードのタケはこの時点で十三歳。大型犬ではかなりの高齢だ。十五年前に渡米、ほぼ同時期をタケとともに過ごした。

〈何年間も同じものを食べ、同じところを歩き、同じ期待を、同じ仕草をくり返す。寝て起きて、また同じ日をくり返す。〉そしていつの間にかタケの老犬時代は始まっていた。犬の一生は短い。

〈ああ、ほんとうに、急いで書かないとタケのいのちに置いていかれそうだ。タケの寝相が、どんどん死体っぽくなってくる。〉

犬の三カ月は人間の三年に相当するという。タケの老いは一進一退、しかし着実に死へと向かっている。三カ月前に出来たことが今は出来ない。あれほど好きだった散歩にも行きたがらなくなった。無意識に出てしまううんちの後始末が家族の日課となった。

そして伊藤はタケの介護とともに熊本に独居する高齢の父の遠距離介護もしなくてはならなかった。タケの老いた姿に遠く離れた日本でひとり死と向き合う父を重ねる。〈こっちの老人や老犬の世話をすることで、あっちの老人に還っていけばいい。〉思うように動けぬ気持ちをこうぶつける。しかし、いくらタケの介護をしても、それは遠く離れた父の孤独を埋めるものではない。直後、伊藤の父は他界する。そしてタケにもその時がやってくる。

タケの骨壷を受け取りに葬儀社を訪ねた伊藤が〈タケの母です〉と名乗る。伊藤は「母」をこう定義する。〈だれかの『生きる』を全面的に引き受ける人。それが『母』の定義なのかもしれない。〉

「母」としてタケを看取り、「子」として父を看取る。これは「母」の物語であり、同時に「子」の物語でもある。愛すればこそ、私たちはこの役割から逃れることはできない。時に、そのしんどさに逃げ出したくもなるだろう。私も今飼っている猫5匹すべてを看取る日がくることを考えると、ふと無重力空間に投げ出されたような不安に襲われる。でも、いつかくる愛するものの喪失を引き受ける勇気の種を『犬心』から私はもらった。そして、それを心の深いところに植えたのだ。芽はまだ出ていないけれど、いつかのために。

『犬心』(伊藤比呂美/文春文庫)

校正者/編集者。国語辞典の編集、日本語教育関連書籍の編集、ウェブコンテンツの制作を経て、現在はフリーで校正、編集、執筆のお仕事をしています。ネット古書店「書肆こいぬ」店主。長年の相棒犬、桃を見送ってから、5匹の猫と暮らしています。
書肆こいぬ : http://www.coinu.com/